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2019年1月31日  一品もちよりランチ

 今日は、友人で一品もちよりランチをしました。
今日は沢山ご馳走が並びました。

 デザートのケーキ いちご もいただきました。
またみんなで会おうね


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by emiko0708 | 2019-01-31 20:18 | Comments(0)

2019年1月30日 どう喝

テレビで悲惨な事件が起こりとても悲しくなります。
少女はどう喝されていた何度もききました。

その言葉をしらべました。
  脅すこと 声を張り上げたりして怯えさせること。


 辛かったでしょう。悲しかったでしょう。
 助けてほしかったでしょう。



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by emiko0708 | 2019-01-30 23:28 | Comments(0)

2019年1月28日 「のどぐろ」で夫婦で笑った

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お土産にいただいた「のどぐろめしの素」裏の説明者をみると「赤ムツ」と
書いてありました。

私   え!「のどぐろ」っと赤ムツの事だったんだ
主人  知らんやった?
私   最近新聞に のどぐろの稚魚全滅とあったのをみたけど赤ムツだったとは
    いつから知っていたの? 何で知っていたの?
主人  のどくろ~あめ
私   (笑)真面目にきいているのに~


主人はときどき私を笑わせてくれます。
いまいちですが、100点の時もありますよ。
 

by emiko0708 | 2019-01-28 23:05 | Comments(0)

2019年1月28日 お釈迦様と阿弥陀仏について

主人の父は五男で家には仏壇もありません。
私は62才の今でもお寺と無縁です。

なにも知らないので少し勉強しました。

お釈迦様と阿弥陀仏どうちがうのですか?
こんな事も知らずにすいません。

お釈迦さま(釈迦如来、釈迦牟尼仏)と阿弥陀仏(阿弥陀如来)
違う仏です。

阿弥陀仏は大宇宙のすべての仏の師匠です。  

一方でお釈迦さまは大宇宙の仏の一仏ですから、阿弥陀仏と
お釈迦さまの関係は、阿弥陀仏が師匠でお釈迦さまが弟子になります。

それだけ阿弥陀仏が称賛されるのは、阿弥陀仏の力が他の仏と
比べてズバ抜けてすごいからです。

どのような力かと言いますと、私たちの苦しみ悩みの根元である
「無明の闇」を破る力です。

この無明の闇を破る阿弥陀仏のお力を「本願他力」とか「他力本願
と言われます

*他力本願
阿弥陀如来の本願力とは、すべての人が持っている暗い心=無明の闇
を破り、心からの満足、幸福を与えるお力です。

清力美術館でみた 誕生仏が私にいろんな事を教えてくれました。
ありがたいことでした。


by emiko0708 | 2019-01-28 22:20 | Comments(0)

2019年1月28日 早朝勉強 お釈迦様誕生


清力美術館で「誕生仏」の作品を見たときに
生徒さんが「天上天下唯我独尊」ととなえてあるポーズですね
とおっしゃいました。???

無知な私はなんのことかわかりません。
そこで釈迦の誕生をしらべました



4月8日は、仏教を説かれたお釈迦様の誕生日です。
この日を「花祭り」といい、小さな釈迦像に甘茶をかけて
いるのを見られたことがあるかもしれません。


なぜ「花祭り」というのかといいますと、お釈迦様が
ルンビニーという花園で誕生されたからです。

当時、インド北部で栄えた釈迦族の長・浄飯王と后の
マーヤー夫人には、永らく子供が恵まれませんでした。
ところがある時、待望の世継ぎを懐妊しました。
初産であった夫人は、里帰りのため故郷の隣国へと向か
います。ところが、予定より早く産気づき、帰途にあった
ルンビニーの花園で、後のブッダ、お釈迦様となるシッダルタ太子
を出産されました。
この時、太子は、右手で天を、左手で大地を指さして
こう宣言されたといわれます。

天上天下 唯我独尊(てんじょうてんが ゆいがどくそん)
三界皆苦 吾当安此(さんがいかいく ごとうあんし)

小さい頃に、何もしらずに甘茶を頂いてました。
頂けるのがたのしみでした。



by emiko0708 | 2019-01-28 07:12 | Comments(0)

2019年1月28日 早朝勉強 仏教の伝来

日本への伝来は《日本書紀》では欽明天皇13年(552年)とされるが,
《元興寺縁起》などでは538年といわれる。仏教の受容をめぐって,
蘇我,物部の争いがあり,用明天皇の代に崇仏の方針をとった。

聖徳太子は仏教を基本とする国政で,諸氏族間の統一を図った。
奈良時代には国営の寺院が多く営まれ,東大寺を初めとして各国に
国分寺
が建立され,南都六宗が確立した。

飛鳥〜奈良時代の仏教は,鎮護国家を目的とした学問仏教であったが

平安時代に入ると山岳仏教となり,唐から最澄空海によって天台・
真言が伝えられ,比叡山高野山などが開かれた。平安末期になると,
その時代的風潮は末法思想の流行を生み,浄土思想が普及し,源信
法然
による念仏が民間に浸透した。

鎌倉時代には,親鸞道元栄西日蓮一遍などが輩出して,
真に民衆的な新仏教が興起した。

室町時代には,精神的清新さは失ったものの,五山を中心とする
禅僧の独特の美術,文学を生んだ。

織豊時代には大寺院で織田信長の徹底した破壊を受けたものが多
かったが,江戸初期には各寺院とも復興し,キリシタン禁圧にした
がって,戸籍をつかさどり,次第に信仰・精神面での力を失って
いった。

明治維新直後の復古思想による廃仏毀釈(きしゃく)を経て,仏教の
革新も行われ,戦後は多くの新興宗教を生んだ。
by emiko0708 | 2019-01-28 07:01 | Comments(0)

2019年1月28日 高礼撤去について

キリスト教弾圧に対する諸外国からの抗議

横浜などで宣教が密かに進む一方で、カトリック教徒に対する日本政府の
迫害は衰えることはありませんでした。イギリス公使パークスをはじめ
諸外国の公使たちは、浦上キリシタンの強制流罪決定に対して明治政府
に強く抗議しましたが、第一次流罪は実施され、その後も流罪の中止を
求めましたが、第二次流罪も行われました。

流配先での信徒の様子を実際に見た外国人が、横浜の英字新聞にその様子
を投稿したのですが、それが再び外国人たちの抗議活動に火をつけ、
諸外国から明治政府に待遇改善の要請が訴えられました。これを受けて
明治政府が人を送って諸藩の実態を調査させたところ、苛烈な虐待が露見
して問題となり、政府も諸藩に待遇改善を指示するようになりました。

しかしその一方で、1871年キリシタン67人が逮捕されるという伊万里事件
が起こり、諸外国からの抗議は止むことがありませんでした。


岩倉使節団の欧米視察


この頃明治政府を代表して、岩倉具視使節団が欧米へと出発しました。
優れた欧米の文化を吸収し、知見を広めるという名目の裏には、安政
の五カ国条約の不平等条項を改正する足がかりを見つけたいという希望
が込められていました。

しかし日本国内でのキリスト教弾圧の状況を新聞に取り上げられたため、
岩倉使節団が行く先々で受けるのは激しい抗議活動で、一般民衆から
政府関係者にまで強い非難を浴びせられることとなりました。予想した
以上の抗議を受けた岩倉具視は、このままでは条約改正どころか、交渉
のテーブルにもつけないことを実感しました。

そこで日本にいる伊藤博文に「浦上キリシタンをただちに釈放しなければ、
対等の外交を行えない」と打電し、明治政府にその旨を伝えるよう要請
しました。


高札撤去


これを受けて1873(明治6)年2月、明治政府はついに太政官布告で
キリシタン禁令を含む高札を撤去するとし、キリスト教禁令が261年ぶり
に解かれることとなりました。しかしこれで信仰の自由が完全に認めら
れたわけではなく、キリスト教黙許の時代に入っただけでした。

信教の自由が認められるのは大日本帝国憲法、信教の自由が保障されるの
は、終戦後日本国憲法の発布まで待たなければなりませんでした。


浦上キリシタンの帰郷


高札撤去の太政官令が出て、1873(明治6)年3月までに浦上キリシタン
は釈放され、4月から6月にかけて長崎に帰郷して行くことができる
ようになりました。しかし「旅」(キリシタン弾圧による流配のこと)
から戻った信徒たちには過酷な現実が待ち構えていました。

流配されて行く者たちは処刑されるものと考えられたため、信徒たちの
家は略奪に遭い、家財道具は何も残っておらず、家も壊され、畑も荒れ
果てていました。1873年に村へ戻った1930人のうち、家があったのは
1164人、家のない者は766人で、改心(棄教)したため前年に帰村した者
にも家のない者が589人いました。キリシタンたちは、戻ってからも苦
しい生活を強いられることとなったのです。

しかし芋の根をかじって飢えをしのぎ、田畑を割れた陶器のかけらで耕して、
元の生活を取り戻した浦上キリシタンたちは、自分たちの村に聖堂を建てる
ことを夢見、働いて、禁教令時代に迫害した村の庄屋の家を買い取って、
その敷地に聖堂(浦上天主堂)を建てました。そして「旅」の生存者たちは、
その前に「信仰の礎」と刻んだ石碑を建て、信仰の勝利を神に感謝しました。


HP 天上の青 より引用
http://tenjounoao.com/jhistory/history19.html


by emiko0708 | 2019-01-28 06:47 | Comments(0)

2019年1月27日 異端のまなざし展

 本展は、舞台俳優でありながら美術に対する独自の目を持ち蒐集家の
核的存在として活躍されている支那海東氏をはじめ、9名のコレクター
の収蔵品による作品展を開催いたします。

 この展覧会は、蒐集家として独自の視点で見出してきた絵画彫刻、美術工芸
考古作品と、異彩を放つ作品の数々をセレクトして展示します。

オーギュウスト・ロダンの彫刻「鼻のつぶれた男」やエスキースをはじめ
高島野十郎の風景画「ウァンセーヌの森」と未公開作品である静物画、白陰
及び仙厓の禅画、貴重な仏教美術、エミール・ガレや古伊万里などの工芸品
と非常に興味深い充実した作品群となっています。
 
 希少価値の高い美術作品を幅広く揃えた本展をご高覧頂き、より多くの皆様に
作品のすばらしさと奥深さを堪能していただければ幸いです。

                        パンフレット記述より






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by emiko0708 | 2019-01-27 19:11 | Comments(0)

2019年1月27日 早朝勉強 フルベッキについて

昨日の勉強で更にフルベッキを調べてみました

フルベッキ
―明治新政府の顧問に招聘され、日本の近代化に貢献した宣教師―
                              岩崎洋三

 安政5 年(1858 年)に日米修好通商条約調印されると、翌年プロテスタント宣教
師が初めて来日した。条約で1 年後に神奈川・長崎の開港と、外人居留地内での
外人の信教の自由化が決まったことで、アメリカのプロテスタント各派が一斉に
日本に宣教師を派遣したものである。
 しかし、開港はしたものの、外人居留地以外では明治維新以後も切支丹禁制が
続けられたので、来日した宣教師たちの布教活動はままならなかった。一方、
蘭学から英学への転換が急務だった幕府や諸藩は、競って宣教師を英語教師に雇
った。このような情勢下長崎に着任した米オランダ改革派の宣教師フルベッキ1は
、幕府洋学校の英語教師に、そして佐賀藩洋学校には校長として雇われた。
フルベッキがこれらの学校で、長崎に集まった全国の俊才に、英語にとどまらず、
聖書や米国憲法など幅広く教えたことが評判となり、多くの幕府や諸藩の指導者
がフルベッキに学び、教えを乞うようになった。
それらの中から岩倉具視、鍋島直正、横井小楠、松平春嶽、大隈重信、副島種臣
、勝海舟等が明治新政府の枢要のポストにつくと、フルベッキは彼らの推挙に
よって開成学校教頭、新政府顧問として東京に招聘された。そして、改正期限が
迫っていた不平等条約の改正交渉と、そのための政治体制・法体系整備等につい
て、フルベッキの該博な知識が頼りにされた。フルベッキは期待に応え、条約
締盟国への岩倉使節団派遣、幕藩体制に変わる政治大綱・統治機構を定めた
政体書や学制の制定、多数の海外留学生の派遣等々、明治初期の日本の近代化
に貢献する多岐な活躍をした。神学校を出たばかり、かつ無国籍の新米若年宣教
師がここまで活躍しえたこと、また切支丹禁制下で攘夷派の過激な動きも収まら
ない中で、維新の指導者たちが、近代化を急ぐことが最重要としてキリスト教宣
教師をここまで重用したのは共に画期的である。


切支丹禁制の高札撤去を実現

慶長19 年( 1614 年)に実施されて以来262 年続いていた切支丹禁制の高札が、
1873年(明治6 年)2 月24 日付の太政官布告によって撤去された。

フルベッキは前出ブリーフ・スケッチの本文で「西洋の宗教を禁止した古い布告は
廃止されるべきであり、従って自国の信者が法律を守り、公然たる罪を犯さない
限り、迫害を受け、殉教に至らしめてはならない」と説き、さらに「宗教的寛容
についての覚書」でも「いかなる国の国民も、自分自身の良心に従う宗教的信条
と崇拝形式とを保持することが許されている」と岩倉使節団に説いていた。
1871 年12 月に出発した岩倉使節団は、最初の訪問国アメリカで大統領からも
同趣旨の強い要求を受けたため改めて留守政府に検討を指示し、その後欧州滞在
中に岩倉具視が電報で切支丹禁制の高札撤去を要請し、使節団帰国を待たず1873
年(明治6 年)2 月高札撤去が実現した。




上記の文は岩崎洋三さんのレポートより抜粋させていただきました。
もっとお読みになりたい方は下記HPへ
http://www.iwakura-mission.gr.jp/tokubetu-kikou/kikou/sho-iwasaki.pdf#search=%27%E3%83%95%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%AD%E5%8D%9A%E5%A3%AB%27

NPO法人米欧亜回覧の会 前身のHP
http://www.iwakura-mission.gr.jp/n_kaihou/nweb_65/n65-3.htm

母体のHP   NPO法人米欧亜回覧の会
http://www.iwakura-mission.gr.jp/

by emiko0708 | 2019-01-27 06:39 | Comments(0)

2019年1月26日 大隈重信の揺籃の地 フルベッキ博士寓居の地

テレビ番組で 揺籃の地 寓居の地と言われた言葉の意味が
おはずかしのですがわからないので調べました。

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長崎市西小島 梅ケ崎神社にある(テレビに出た案内)







今日の勉強 ①
    揺籃の地(ようらんのち)
     1 出生地
     2 物事が発展する初めの段階をすごした土地


今日の勉強②
      何故 長崎が大熊重信の揺籃に地なの?

      元治元年(1864)、27歳の時の来崎、フルベッキについて英語
      を学び、さらに翌年には長崎樺島町の諫早屋敷に英語塾致遠館
      を設立、自らその経営にあたるとともに若者達を教育した。
          解説板より

       大隈重信はこの長崎でフルベッキ博士について英語を
      教わったことが人生に大きく影響したので揺籃の地

今日の勉強③
     「フルベッキ博士寓居の地」の寓居の地がまた解らない
      調べると一時的に住んだ場所

     フルベッキ博士はこの梅ケ崎神社に一時期居住されて
     いたので寓居の地

         日本語はむずかしい!
by emiko0708 | 2019-01-26 23:42 | Comments(0)